【雛人形の選び方】 【雛祭りのルール】 【雛人形の飾り方】 【雛人形のしまい方】 【五節句 

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◆運営管理者 →こうげつ人形

こんな話しってる?
雛人形の選び方
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雛人形の飾り方 
雛人形のしまい方
 
お雛道具のいろいろ
   
雛祭りの由来といわれ
桃の節句は五節句のひとつ
 

雛人形の原型は〜
 
  ・形代(かたしろ)
  ・天児(あまがつ)
 
・這子(ほうこ)

雛人形に歴史あり〜

 ・紙雛(立雛)
 ・室町雛
 ・寛永雛
 ・享保雛
 ・次郎左衛門雛
 ・有職雛
 ・古今雛
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天児(あまがつ)・・這子(ほうこ)

ひな人形のル−ツ?

・ひな人形のル−ツには各種の流れがあります。

(1)形代(かたしろ)・・・
  
(2)天児(あまがつ)・・・・・

(3)這子(ほうこ)・・・・・・

(4)ひひな・・・・・・・・・・

■形代(かたしろ)

  


・「形代」(かたしろ)は、身代わり信仰の現われで、人間の身代わりとされました。
三月の上巳の節句に、この
形代で体を撫でて、身のけがれや禍いを人形(ひとがた)に移し代わらせて、川や海に流して幼子の無事な成長を祈るものでした。

・「形代」(かたしろ)は、古代からのものです。
縄文の土偶、弥生の人面土器、古墳時代の人物埴輪などからも推測することが出来ます。
古代では祓以外にも、多分に呪術的な要素も多かったのではないかと言われています。

・流してしまうのですから、素材も簡素なものでした。
現在と異なり、紙は貴重品でしたから、草木などが使用されていました。

◆最近の「形代」(かたしろ)

・全国の神社で「大祓」と呼ばれる行事があります。
知らず知らずのうちに犯した罪や過ち、心身のけがれを祓い清めるための行事です。

・「古事記」にも記載され、平安時代の国家の法制書である「延喜式」にも記されており、古くから行われていたことが解ります。
六月と十二月の行事で、 年に二回、毎年
六月と十二月に行われ、 六月は「夏越しの大祓」、十二月は「年越しの大祓」と呼ばれています。

「大祓」(おはらえ)には「撫で物」(なでもの)とも呼ばれる「形代」(かたしろ)に、名前と年齢を書き、身体をなでて息を吹きかけます。それが自分の罪・禍・けがれを移すこととなり、海や川に流してわが身の代わりに清めてもらうのです。

「形代」(かたしろ)としての人形
・「流し雛」や「七夕雛」などはその名残と言われています。

・鳥取の流し雛

  ・松本の七夕雛人形
・「七夕雛人形」は、8月7日に飾ります。海や川に流すのではなくて、軒先に吊るして風にながすことで祓の役割を果たすと考えられています。


■天児(あまがつ)■

  

天児(あまがつ)幼児の枕辺におかれ、上巳の節句」(じょうしのせっく)に使用され、幼子の病気や災厄をはらい、無事な成長を祈るものでした。

・天児(あまがつ)は幼児の身近なところで、病気やけがれを移しかえる役目をしていました。30センチくらいの二本の竹の棒を束ねて人形の両手として、さらにTの字形になるように別の竹を横に組合わせます。その上に白絹の布で作った丸い頭を取り付けて作ります。それに簡単な衣裳を着せて幼児の枕もとに置いて、魔除けのお守りとしたのです。
 ※遠山記念館蔵(ホームページ参照)
・赤ちゃんの産着などを着せて、けがれの祓の形代(かたしろ)の役目も果たしたようです。
その頃の
形代(かたしろ)
天児(あまがつ)は、明確な区別も難しく、用途が入り混じっていたようにも思います。

■這子(ほうこ)

  ※遠山記念館蔵(ホームページ参照)

這子(ほうこ)は、上巳の祓に贈られた人形で、幼児の枕辺におかれ、祓の後に神聖なものとして翌年にも用いられようになり、幼子が3歳になるまで身に添えて持たせるなどの風習も生まれました。

・幼児の愛玩用のぬいぐるみとしても愛用されていたと思われます。

・ぬいぐるみの原型とも言われるように。白絹に綿を詰めてつくりました。幼児がハイハイをするようなデザインから
這子(ほうこ)の名称がついたのでしょうか?

這子(ほうこ)のデザインは現在に伝えられています。
飛騨高山の「猿ぼぼ」は、赤い布で胴を作り、これに綿をつめ、丸い頭をつけたもので目鼻は描かれていません。幼児の災厄を祓う身代わりの役をつとめる這子(ほうこ)が次第に変化して玩具となりました。

・猿ぼぼ


・端午の節句の「武者絵のぼり」にも使用されています。のぼり旗の下部の跳ね上がり防止のための錘(おもり)として、手と足をしばって紐をつけて使用しています。


■立雛


天児(あまがつ)が男子、這子(ほうこ)を女子に見立てて、一対のものとされたものが、立雛の原型とも言われています。

・現在の雛人形のなかでも、デフォルメされた簡素な立雛は素晴らしいものです。初期は紙で作られていることなどから、形代(かたしろ)や天児(あまがつ)からの変形であることは想像に難くないのですが、簡素なデザインは秀逸なものと言えます。

・小袖などのデザインから推察すると、室町以降に誕生したのでしょう。平面的な造りなので、自立出来ず、雛壇や雛屏風に立てかけて飾ります。

・この立雛のデザインは、木目込(きめこみ)人形の立雛へと継承されてゆきます。


■ひひな

・上記の祓(はらえ)用の天児(あまがつ)・這子(ほうこ)とは別に、「ひひな遊び」のお人形というものがありました。
平安時代の古典「源氏物語」に、貴族の少女達が「ひいな遊び」をしている風景が登場しています。
「枕草子」にも描かれています。


・「ひひな」は、
上巳の祓や3月3日とは関係なく幼女の遊び道具として存在していました。

この「ひとがた」と「ひひな」が結びついて、現在の「お雛さま」が生まれました。

・上巳の祓の人形と幼女の遊び道具の人形は、中世以降になると次第に立派なものとなります。
捨てていた人形(ひとがた)も「飾り雛」として造られるようになり、江戸時代になると、平安時代の宮廷を模した雛壇の雛人形となってゆきました。

・雛遊びが雛祭りと変化してゆくのは、江戸幕府が令の規定の3月3日の節日を「五節句」の一つに定めたことが最大の誘因でしょう。時代が進んで、上巳の祓いの人形(ひとがた)が保存されるようになり、3月3日に娘の幸福を願って人形を飾る風習がゆきわたってゆきます。

・宝暦年間(1751〜1764)以降、京都から江戸への文化の移動に伴い、文化・文政年間(1804〜1830)頃には京都とともに江戸にも雛人形を飾る風習が広まってゆきました。
雛市なども隆盛となり、市民の間にも浸透していったのです。
それ以降、雛祭りは明治・大正・昭和と盛んとなってゆきます。

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